こんにちわ、テッラです。
本記事は、水瀬いのりさんの最新アルバム「glow」に収録されている「八月のスーベニア」の歌詞考察になります。
主な内容としましては、現在、いのりまち界隈で言われている、登場人物がすでに亡くなっているという死亡説に対して、その登場人物は生きていると考えることもできるのでは?とする生存説を提起する内容です。
「死亡説」を否定するためではなく、別の解釈を提示することにより楽曲の理解度を深める目的です。従って、「死亡説」「生存説」いずれの場合であっても、それぞれのメッセージはアルバム「glow」のテーマと深く関わっていることを考察していきます。
死亡説について
登場人物
まずは、登場人物について見ていきましょう。
登場人物は「僕」と「君」の二人であり、「僕」視点で物語が進んでいきます。そして、亡くなったとされているのは「君」ということになります。
死亡説の根拠
次に、死亡説の根拠となっている点を以下に挙げていきます。
・タイトルの「八月のスーベニア」の八月は、お盆を想起させる
・歌詞に登場する「ジニア」の花言葉は「不在の友を想う」「別れた友への想い」であり、さらに「ジニア」は仏花として利用されていた
・歌詞にある「交わした言葉でジニアが揺れている また来年もここに来よう」がお墓参りを示唆している
ジニアの存在
八月といえば、もちろんお盆だけでなく、海であったり花火であったり楽しい夏の思い出をイメージすることも多いと思います。しかし、上記のように「ジニア」は仏花として利用されていた花で、さらに花言葉は「不在の友」。その「ジニア」があるところに「また来年もここに来よう」という定期的な訪問を示す表現がされていることから、八月のお盆にお墓参りをする=登場人物はすでに亡くなっている、ということに繋がっていったと考えられます。
生存説の提起
お墓参りについての検証
ではまず、実際に「僕」がお墓参りしたかどうかについて検証するために、お墓だとされる場所までに至った「僕」の行動と前後の歌詞の関係を検証します。
1番Aメロ
甘酸っぱいソーダが喉に残る
今年は花火が上がるらしい
少し褪せた写真 君に手を引かれて
雲を霞んだ残像
1番Bメロ
誰もいないバスに乗り込んで
行先も決めずに走り出した
1番サビ
ああ
あの夏が過ぎ去って
今はもうどれぐらいだろう
きっと君は大人になっただろう
「海を見に行こうよ」
君は無邪気に笑った
よく晴れて空が綺麗だった
2番Aメロ
道はどうやらここまでみたいだ
この先は歩いていかなくちゃ
交わした言葉でジニアが揺れている
また来年もここに来よう
1番Aメロ…「君に手を引かれて」とあることから、過去の思い出の振り返り
1番Bメロ…「僕」の現在の行動
1番サビ…「君」へ思いを馳せながら「君」との会話を思い出す
2番Aメロ…「僕」の現在の行動
以上のように、「僕」の現在の行動と過去の思い出や「君」への気持ちが交互に描写されながらストーリーが展開しています。
従って、1番Bメロの行動と2番Aメロの行動も、一連の行動として繋がっていると考えられます。
つまり、「僕」はバスに乗り、途中から歩いて「ここ」に来たという流れです。
注目すべき点は、「行き先も決めずに」という部分です。
もしお墓参りが目的であるならば、行き先を決めてないということは考えにくいのではないでしょうか。墓地という目的地が明確になっているわけですから。
さらに、2番Aメロでは「道はどうやらここまでみたいだ」とあります。
何度もお墓参りに訪れているとすればすでに道順は把握しているはずなので、「道はどうやらここまでみたいだ」という、この場所を初めて訪れたような表現にはならないと考えます。
もし、今回のお墓参りが初めてだったと仮定した場合、道順をしっかり把握しきれておらず「ここまでみたいだ」という表現になってもおかしくはありません。しかし、あくまで目的がお墓参りだとすると、その前の「行き先も決めずに」という部分と整合性が取れなくなってしまいます。
では、ここまでの「僕」の行動は何だったのかというと、筆者なりのイメージはこうです。
当てもない一人旅のような形でバスに乗った。そして、終点までバスに乗り、バスを降りてから当てもなく歩き、その途中で自生しているジニアを見つけた。
「君」と交わした言葉をふと思い出したときに、風に揺れているジニアを見た。
「僕」は、そのジニアが自生している場所を「君」を忘れないための特別な場所だと思い、また来年もその場所を訪れようと決めた。
ここで重要なのが、なぜ「来年」なのかについてです。
まず、「僕」が移動している時期ですが、行き先を決めなくてもいいほど時間の余裕のある状況で、かつ、タイトルも「八月のスーベニア」となっていることから、八月の夏休みと考えてほぼ間違いないでしょう。
そして、「誰もいないバス」とあることから、地方の非常に遠い場所まで一人旅をしていることが連想されます。
そんな遠い場所でたまたま発見したジニアの自生する場所ですから、いつでも行ける場所ではなく、また来年の夏休みに来てみようとなったのではないでしょうか。
「ジニア」の意味
次に、「ジニア」について考えてみたいと思います。
「八月のスーベニア」という楽曲において、この「ジニア」が最大のポイントであることは論を俟たないでしょう。
すでに述べたように、「八月」で仏花である「ジニア」があって、その花言葉が「不在の友」ですから。藤永さんがそう誘導するために「ジニア」を使ったとしか考えられないくらいです。
では、なぜ花言葉が「不在の友」となったのでしょうか。
下記のサイトを引用します。
「不在の友を思う」「遠い友を思う」「注意を怠るな」は、ジニアの開花期間が長いことにちなむといわれます。
時間が過ぎてゆくにしたがって会えない人を思うこと、また時間の経過とともに注意力が薄れることに由来しています。
horti.jp
以上のように、花言葉の由来を辿ってみると、開花期間の長さから「時間が過ぎてゆくにしたがって会えない人を思う」というのがもともとの意味であり、そこには「死別」というようなニュアンスはないんですね。
つまり、「ジニア」をあくまで花言葉の文脈に絞って捉えるならば、「死別」とまでは行かないのではないかと筆者は考えます。
従って、「八月」も、お盆ではなく、あくまで夏の思い出を強調するために使われたのではないでしょうか。
「大人になっただろう」
筆者が「君」は生きていると考える理由はまだほかにもあります。
以下の歌詞を見て下さい。
あの夏が過ぎ去って
今はもうどれぐらいだろう
きっと君は大人になっただろう
「僕」は「君」について、「大人になっただろう」という、子供から大人への時間の経過に伴う肉体の変化を想像しています。
亡くなった人は、当然ながら亡くなった時点でその人の時間は止まってしまい、肉体が変化することはあり得ません。
従って、「僕」は「君」が生きていることを前提とし、「君」が成長して「大人になっただろう」と想像しているのではないでしょうか。
以下の歌詞についても同様のことがいえます。
あの夏が過ぎ去って
今はもうどれぐらいだろう
きっと君は綺麗になっただろう
「きっと君は綺麗になっただろう」という部分も同様に、成長して外見が変わった肉体の変化を表現していると言えます。
「いつか君に会う日まで」
さらに、以下の歌詞にも注目しました。
ずっと忘れないよ
ずっと忘れないよ
ずっと忘れないよ
いつか君に会う日まで
注目は「いつか君に会う日まで」という部分です。
この解釈ですが、未来のいつかは分からないけど君と会う日が来る、つまり、「僕」にとって「君」と会うのは未来の確定事項になっているということです。
さらに、「会える」ではなく「会う」という表現になっているところも重要です。
なぜなら、自らの意志で「君」に会いに行くというニュアンスを含んでいると考えられるからです。
もし、「君」がすでに亡くなっているとするならば、少なくとも「僕」が生きている時間軸で「君」と会う「いつか」の日は絶対に来ないわけです。
反対に言えば、「君」が生きているからこそ、この世界で未来のいつの時間なのかは分からないけど、会える日が必ず来るんだという希望の歌詞だと考えました。
例えばですが、「いつか君に会う日まで」という歌詞がなく「ずっと忘れないよ」で止まっていたとしたら、もう「君」とは絶対に会えないんだというニュアンスが強くなるように思います。
また、「Well Wishing Word」の歌詞のあるような「また出会えるよ」「また出会えるでしょう」という表現ならば、「君」はすでに亡くなっていると考えてもおかしくはありません。
「会う」は自ら会いに行くニュアンスが強いのですが、「出会う」は偶然出会うときに使われます。2人は来世でも偶然に巡り合うという意味になるからです。
全体のストーリーに関する検証
楽曲についていのりちゃん本人の言及
「八月のスーベニア」について、いのりちゃんご本人の言葉を引用して、改めてどのような楽曲なのかを見ていきます。
歌詞の世界観は藤永さんにお任せして書いていただきました。毎回、胸がキュンとなるような歌詞が届くのですが、この曲も夏の思い出や、暑さの中にある冷たさ、少し夏の終わりを感じるところがあって。「七月」ではなく「八月」というところにも、残暑を残す切なさが感じられて、さすが藤永さん!と思いました。
これは八月だから8曲目です。藤永さんといえばロックの中にある哀愁とか、どこか届かなかった想いとか、私ももちろん好きだけど男性が好きな曲なんじゃないかと。
あの夏に思いを馳せるって、男の子はさ、いつだって少年の心を忘れられないっていうじゃん。女性は臨機応変にいけちゃう人もいるかもしれないけど、男性の中で初恋ってめちゃくちゃでかいじゃない。そういう気持ちを、女々しさもあるんだけど、それを押し付けることなく歌えたのはこのキー設定だからってのもあるのかな。
水瀬いのり MELODY FLAG 第303旗
藤永さんが書いてる過去の楽曲も悲恋というか、淡い思い出の中、でもその思い出があったからこそ今の自分があるよというどこか昔を思いながら未練だったり伝えられなかった想い、ちょっとじめじめっとしたものをうまく音楽に表現してくださる作家さん。
以上のように、いのりちゃんが考える「八月のスーベニア」は、学生時代の初恋のような青春や夏の淡い思い出を振り返るというような世界観になっています。
以上を踏まえて、今では二人が会えなくなってしまった、別れとなるようなシーンについて考察していきます。
「ずっと忘れないでね」と別れのシーン
別れのシーンだと考えらえるのは以下の歌詞の部分です。
「ずっと忘れないでね」
イマが永遠(とわ)になるように
ワンシーンを切り取った
「ずっと忘れないでね」は別れ際に「君」が「僕」に発したセリフだと考えられます。
なぜかというと、まず歌詞の中にある鍵括弧のセリフの流れについて考えてみたいと思います。
君「海を見に行こうよ」
君「また海に行きたいな」
僕「絶対、約束だ」
君「ずっと忘れないでね」
という流れになるかと思います。
一言で表すと「また海に連れて行ってくれる約束を忘れないでね」と「君」は「僕」に言ったのですが、ここで重要なのは「ずっと」という長い期間を示す言葉が入ってることです。
単純に海に行く約束をしたのではなく、その約束を忘れてはいけない時間はとても長いわけです。「僕」と「君」が傍にいて、いつでも一緒に行ける状況ならば「ずっと」という言葉は使わないはずです。
つまり、「僕」と「君」とは離れ離れになってその期間はとても長くなるかもしれない。でも、その間もずっと「約束を忘れないで」と「君」は「僕」に言った別れのシーンではないでしょうか。そして、そのような約束を別れ際にしたということは、2人はまだ一緒にいたかったということになります。
「置いていくんだ」の3つの意味
次に、気になるのが以下の「置いていくんだ」という表現です。
これから 長い長い夏に君を
置いていくんだ
置いていくんだ
「置いていく」という辞書的な意味は、「人や物をその場に置いたまま、どこかへ行くこと」となっています。
この歌詞において、置いていかれる存在は「君」ということになります。
一つ目の意味として、「僕」は「君」を置いたまま(残したまま)、自分がどこかへ行ってしまうことです。
具体的な状況に当てはめると、例えばですが、夏休み中に「僕」が転校などによって「君」がいる場所から離れざるを得ない状況になったということでしょうか。
2つ目の意味は、「これから 長い長い夏に」という部分との関係です。
「これから 長い長い夏に」とは未来のことを指しています。つまり、未来の夏の時間においても「君」という存在はずっと置かれたままになる、「君」という存在は未来においても、夏の思い出として遠く離れた存在、ずっと会えない存在になるという意味です。
3つ目の意味は、全体のテーマとの関係です。
いのりちゃんご本人のインタビューを引用します。
共通しているのは、すごく優しい世界の曲ばかりということ。どこかに必ず救いがあったり、希望があったり、光の大きさや輝きの光量は違っていても、どの曲にもちゃんと“輝き”が宿っているので
当たり前を大切にしていこう。その時は気づけなかった道の中にある忘れ物落とし物を未来で回収するような、後戻りすることが決してネガティブではなくて立ち止まって戻っていくことにも未来への道筋が続くヒントになる。
つまり、「君」という存在は忘れ物のように置いたままにしたけど、いつか必ず取りに行く=会いに行くという前向きな示唆が「置いていくんだ」の中に含まれているのではないかと思いました。
まとめ
ではここで、「生存説」を採用した場合の大雑把なストーリーをおさらいしてみます。
・「僕」は学生時代に「君」と楽しい夏を過ごした
・どうにもならない何らかの理由で「僕」と「君」は離れることになってしまった
・大人になった「僕」は「君」との淡い思い出を振り返る
・「僕」は「君」とした「約束」を忘れずに「君」との再会を信じている
「八月のスーベニア」のメッセージと「glow」のテーマ
「glow」のテーマについて
すでに様々な媒体でいのりちゃんが語ってくれているので、いのりまちの皆さんにとっては耳にタコかもしれませんが、改めてご本人の発言から「glow」のテーマを見てみましょう。
アルバムリリースが約3年ぶりということで……この3年間って、それまで当たり前だったことが当たり前ではないことを痛感させられたり、エンタテインメントというものの存在の大きさを改めて感じたりする期間だったなと思うんです。なので、“失って初めて気付く身近なものの大切さ”みたいなところを軸に作っていけたらいいなと。
コロナ禍という時間を経過して、当たり前だった日常が戻りつつある中で、大切なものや大切にしたいものが、本当はとても身近にあったと感じました。我々の日常はたやすく失われてしまうものであり、毎日元気に過ごしていることが、どれだけかけがえのない時間で尊かったか。その中で得た大切なものを守っていきたいという気持ちを、このアルバムに投影したかった
二つのインタビューにおけるいのりちゃんの発言を紹介しました。
いずれも、今まで当たり前のように存在していた日常の大切さを再確認するというテーマが語られています。
この視点から、「八月のスーベニア」における「ジニア」の意味についてもう一度考えてみます。
「ジニア」の本当の意味
「ジニア」の花言葉とその意味について、下記のサイトに「glow」のテーマと関連するような、非常に重要なことが書かれていましたので引用します。
その開花期間があまりにも長いことから、いつでも咲いていることに慣れてしまい、いつの間にか、その存在から関心を薄めてしまうため、「不在の友を思う」や、「注意を怠るな」といった花言葉があてがわれたそうです。
いつまでも、ずっとそばにいてくれる。特別ではなく、日常的な存在だからこそ、時折、その存在の重みを忘れてしまうことがあります。
不在になって、ようやく気付いて取り戻せるものもあれば、気付いてからでは取り戻せないものだってあるものです。だからこそ、特別ではない日常的なものに、今、向き合ってみる。気づいたらなくしてしまっていた、なんてことがないように。
「日常」の大切さというポイントが、見事に「glow」のテーマと一致していますよね。
つまり、「ジニア」という意味深な花の名前が使わた大きな理由というのは、「glow」の「日常を大切にする」というテーマを示すためのものだったのではないでしょうか。
「死亡説」及び「生存説」のメッセージと「glow」のテーマ
最後に、「死亡説」及び「生存説」のメッセージと「glow」のテーマとの関連性について考えてみます。
まず、「死亡説」を採用した場合であっても、「glow」のテーマと何ら矛盾しないことが分かると思います。
「失って初めて気付く身近なものの大切さ」の中で、決して取り戻すことができないほどの喪失は「死」ですよね。
だからこそ、「会えるうちに会い、話せるうちに話し、素直に愛で気持ちを伝える。」そんなふうにして「特別ではない日常的なものに、今、向き合ってみる。」ことが大切だということです。
そして、「死亡説」における「八月のスーベニア」の歌は、死者を弔う鎮魂の歌ではなく、時には泣いてしまうような時もあるけど、かけがえのない大切な人と過ごした日々を思い出しながら、これからの日々を一日一日大切に生きるという前向きな歌であると考えます。
「生存説」の場合も同様です。「後戻りすることが決してネガティブではなくて立ち止まって戻っていくことにも未来への道筋が続くヒント」であるといのりちゃんも語っている通り、過去の淡い思い出を振り返ることがダメなことではなく、その思い出を大切にしながら「君」に会える日を信じて毎日を生きていくという希望の歌です。
さいごに
まずは、ここまで読んでくださった皆様、誠にありがとうございました。
今まで、このようにして歌詞の考察を文章化したことがなかったので、詰めの甘い点が多々あったのではないかと思います。いやぁ、難しいですね(苦笑)。
ただ、冒頭でも申し上げた通り、他の解釈を否定するものではなく楽曲に対する様々な視点、アプローチを通じて、楽曲の理解を深め、聞き手に何を伝えようとしているのかを探っていくという趣旨のもとに記事を作成いたしました。
本考察が、少しでも「八月のスーベニア」という素晴らしい楽曲をさらに好きになるきっかけになってくれれば本望です。
「glow」のツアーがとても楽しみですね!
あと、これは完全に宣伝なのですが、アルバム「glow」の歌詞をテキストマイニングという手法によって統計的に分析し、考察したものを記事にしております。
よろしければ、そちらもぜひご覧になって頂ければ幸いです。